ウズベキスタン ブハラ観光

ブハラ


【ブハラ】はサンスクリット語で「修道院」の意味

優秀な宗教家、科学者が集まっていた一大都市だったが1220年にチンギスハーンがやってきてほぼ壊滅状態になった。ブハラの街は新市街と旧市街とに分かれている。旧市街は2000年にユネスコ世界文化遺産に認定された。観光の中心は旧市街に集中している。

今回はブハラの有名観光地をご紹介します

  • カラーン・ミナレット
  • カラーン・モスク
  • ウルグ・べク・マドマサ
  • マゴキ・アッタリ・モスク
  • ラビハウズ
  • 有名なおじさんホジャさんの像
  • ディヴァンべギ・マドマサ・ナディ―ル
  • イスマイール・サーマーニ廟
  • アルク城
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【カラーン・ミナレット】

ブハラのシンボル的な建造物です。このミナレットはブハラの街を一望することができます

1127年にカラハーン朝につくられた。カラーンは「大きい」の意味 高さは46メートルもある。ちなみに土台部分は10メートルほど埋められている。このミナレットは中央アジアで一番古いミナレットと言われています。

このミナレットは「ろうそく」のかたちをしています。

ミナレットはお祈りを知らせるための塔として利用されることが本来の目的です。ですが異なる使われ方をされていたことも事実です。この塔は18世紀から19世紀には死刑場となって罪人を袋詰めにして塔から投げ落としていました。このことから「死の塔」とも呼ばれていました。

このミナレットは歴史的にも有名なモンゴルのチンギスハーンとのエピソードがあります。チンギスハーンはブハラの街を攻め込んだ時徹底的にブハラの建造物をこわしたそうです。建造物を壊すということは他文化国家が攻め込んできたときに自分たちの文化のほうがすぐれているこを表すために行われます。

しかし、このミナレットだけは壊さなかったそうです。それにはチンギスハーンがこのミナレットを初めて見たときに思わず見上げました。見上げた時にかぶっていた帽子を落としたそうです。チンギス・ハーンは腰をかがめ、帽子を拾ったチンギスハーンは周囲の人に「この塔は私に頭を下げさせた偉大な塔である。よって壊さないように」といったそうです。

そんなこででチンギスハーンから認められたこのミナレットは破壊されず現在も当時のままの姿で存在しています。

コウノトリ

昔ブハラにはコウノトリがたくさんいたことから屋根にコウノトリのオブジェがついています。そしてブハラのおみやげというとコウノトリのはさみがお土産でも有名です。コウノトリのはさみ雄、雌があります。職人さんがひとつずつ手作りしているためお値段は少し張りますが切れ味は抜群です。

名前を職人さんが入れてくれるアルファベットでもキリル文字でも可能

【カラーン・モスク】

「カラーン」はタジク語で「巨大」という意味があります。つまり「巨大なモスク」という意味があります。その名の通り大きな建造物です。サマルカンドの【ビビハ二ム・モスク】に匹敵するブハラ最大のモスクです。

このモスクは【カラーン・ミナレット】とつながっています。1514年のジャイバ二時代につくられた。つまりチンギスハン時代前にできた建造物

屋根の水色は「青空」を表していいます。ここは講義室として使われていた神学校です。

この神学校は男子学校で義務教育期間後に通うことができました。入学したら4年間アラビア語、イスラム語、英語、数学などの勉強が行われたそうです。

この学校は今は観光地になってしまい学校としては機能されていませんんがソ連時代も利用されていたそうです。

余談ですがイスラム教は女性が学校に行くのは厳しかったりするのですがウズベキスタンはイスラム教の国だけどタシュケントは女性の入学許している学校も多数存在します。

【ウルグ・べク・マドマサ】

ティムールの孫のウルグ・べクが1418年に建設した。中央アジアで現存する最古のマドマサ

ブハラでは唯一のウルグ・べクゆかりの建造物ちなみにウルグ・べク・マドマサはサマルカンドにもある。

マドマサの入り口に

「向学心こそ、ムスリムのなく手はならぬもの」

「信仰する人には、いつでも神の祝福の扉が開かれている」

という文字が彫られている。

マゴキ・アッタリ・モスク

ラビハウズ

ウズベキスタンのオアシスともいわれる場所ハウズは「池」のこと

ブハラにはもともと200近くの「ハウズ」があったそうだが改革の後にソ連時代にほとんど埋められてしまったそうだ。

また、余談だが水の都と呼ばれていたくせに水自体はきれいではなく不衛生であったため

よく疫病が流行っていたそうです。だから埋められてのでは?

1620年に作られて「力ずくのハウズ」とよばれていたらしい

アブドゥールアジス・ハーンの大臣のナディール・ディヴァンべギが、大きな池を作りたいと思っていて地主のユダヤ人女性に土地を売ってくれるように頼んだ。

しかし、地主から断られた。それでナディ―ルは彼女の家の下に運河を引いたこれにより彼女の家は運河の水で流れ始めてしまったたため泣く泣く土地を手放したという話がある。

有名なおじさんホジャさんの像

ホジャさんが日本でいうと一休さんのような存在です

ディヴァンべギ・マドマサ・ナディ―ル

日中みるのと↑

夜みるのと↓とでは雰囲気がだいぶ異なる~

中庭に入場することができる~

中でごはんをたべながらショーを楽しむことももできる

イスマイール・サーマーニ廟

ウズベキスタンだけではなく中央アジア最古のイスラム建築と言われているのがこのイスマイール・サーマーニ廟です。この廟は9世紀に建てられた建築物と言われています。

9世紀にブハラを占領していたサーマーン朝のイスマイール・サーマーニの命によって建築された廟です。

サーマーニ王族の霊廟と言われています。895年から935年の期間で建てられたこの廟は立方体のレンガのドームです。12種類のレンガを組み合わせて作られているということですが現在でも構造の詳細は明確になっていない神秘の廟なのです。

装飾に注目しましょう。

〇は太陽、

□は地球

などと装飾の形ひとつ、ひとつにもきちんと意味があります。

また当時のブハラはゾロアスター教、イスラム教の2つの宗教が混在さいていた時代であったので建築物にもこの2つ宗教の特徴が表れています。

例えばドームの形は天国を表すイスラム教の様式になっております。

内部の装飾で【コブラ】が表されている箇所があるのですがゾロアフター教ではコブラは神聖な生き物とされています。

正方形の建築物であることにも意味があります。正方形であるため隅と隅とが向かい合うようになっていてこれは【善神】と【悪神】の対立を構造上で表しています。

ブハラのモンゴル軍に襲撃を受けたことがあるエリアです。その際大部分の建築物が破壊されてしまったそうです。ですがこの廟は無事襲撃をま逃れることができました。

その理由の一つがこの廟が土に埋まっていて見えにくくなっていたこと、二つ目廟の周りが一面お墓になっていたためです。なぜサーマーニ廟の周りはお墓だったのでしょうか?その理由はこのサーマーニ王は大変人気な王様で国民に愛されました。そのため霊廟の周りは王とともに眠りたいと思う国民のお墓を好んでこの廟の周りに建てたんだそうです。

この廟がウズベキスタンのソ連時代でつまり19世紀に発見されました。造られてから1000年以上たっていましたがきれいな状態でした。

発掘された当初はイスマイール・サーマーニ王ひとりの墓であると思われていたそうですが、よくよく調べてみると父親とさらに息子の合計三人のお墓絵あることが分かったそうです。

この建造物の天井には実は穴が開いています。この穴は15年ごとにまっすぐに月の光が入るように計算されているそうです。

このイスマイール・サーマーニの見学している際に廟の周りをまわって歩く人を見かけるかもしれません。この行動にもきちんと意味があります。この廟の周りを三回まわると願いが叶うという言い伝えがあるそうです。

現世の人の願いは左回りに、先祖の願いは右回りにと言われているそうです。ぜひ叶えたい願いがある人は現地に行った際に試してみてください

犬が昼寝をしていましたwww

ボロハウスモスク

アルク城

アルクは城っていう意味なのでアルク城だと城城になってしまう~~

この建造物は5世紀につくられたレンガ造りの城です。

門の右側にみえる小さな建物は王様の玉座がおかれていた場所らしい。

最後のブラハの王様は馬好きすぎてどこに行くときも必ず馬を連れ歩いていたんだとか~

アルク城の周辺には市場があって職人などもこのアルク城を中心に生活をしていたそうです。

ところ々ぼこぼこでているのは建設の際に足場としても使われていた骨組みの木材です。建造がると切り落とすのだけどちょっとだけのこす~

まとめ

まだまだブハラには見どころがいっぱいです。

ぜひご自身でもブハラの魅力を発見してみてください

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